しまんちゅ仕事論

「人の成功は出身地に左右されません」上里琢文さんの仕事論(元Jリーガー・サッカー選手)

上里琢文さん仕事論

そう語るのは元Jリーガー、現在はビーチサッカー選手として活動する上里琢文さん。

Jリーガーになる夢を叶えた後に待っていた挫折、海外でのプレーを経験して身についたタフなプロ精神、ビーチサッカーとの出会い。

プロスポーツの一線に身を置いてきたからこそ身についた価値観、そして次世代へのメッセージを教えていただきました。

 

元はバスケ少年でした

上里琢文さん

 

―現在のお仕事について教えてください。

東京都立川市をホームタウンとする東京ヴェルディビーチサッカー所属のビーチサッカー選手として活動しています。

―沖縄ではどんな日々を過ごされてきましたか?

父親が小学校のバスケットボール指導者だったこともあり物心ついたころから兄弟揃ってバスケットに熱中していて、口癖は「マイケル・ジョーダン」だったそうです(笑)。

幼稚園の時にたまたま体験したサッカー教室でその面白さを知って小学校ではバスケとサッカーの両方をしていました。

技術レベルですか?サッカーでは県選抜に選ばれていたので運動神経は良かったのだと思います。

でも6年生になると両親からは「どちらかひとつに専念した方がいい」と言われて、その時将来はプロ選手になりたいという漠然とした夢を持っていたので当時まだプロ化されていなかったバスケよりもJリーグが盛り上がっていたサッカーに専念する事をきめました。

思春期を迎えた中学時代は同級生からの遊びの誘惑も増えましたが、サッカーだけは真面目にやっていました。

「俺は将来Jリーガーになる」という夢を語っても周囲は「本気で言ってるの?」という反応でしたが至って自分は真剣。やはり島を出て厳しい環境に身を置くしかないなと県外の高校進学を意識するようになりました。

―県外の強豪校から声がかかっていたそうですね。

はい。多くのJリーガーを輩出している流通経済大付属柏や鹿児島実業などから声をかけて頂き、鹿児島実業には練習にも参加してほぼ入学が決まっていました。

でも当時のサッカー部員は皆、坊主頭でザ・体育会系といった感じで宮古島ののんびりとした空気で育った自分としてはかなり抵抗を感じて、結局は地元の宮古高校に進むことを決めました。

ネガティブな理由だけでなく翌年の国体サッカー競技少年男子に初めて高校1年生が出場できる事を知っていて沖縄代表として出たかった。

それに宮古高校には5つ上に宮古島初のJリーガー、上里一将(現・J2琉球)がいた事もあり、自分が2番目のJリーガーになるべく地元にとどまる事を決意しました。

 

諦めかけていた道が開けた

上里琢文さん

 

―高校では順調にサッカーキャリアを積んでいけたのでしょうか?

いえ、いきなり大きな落とし穴が待ち構えていました。 国体に向けた九州ブロック予選が始まる直前に学内トラブルに巻きこまれて停学処分を受けたことで予選への出場ができなくなりました。

もう島に残った意味がないとサッカーだけでなく学校も辞めようと思いましたが、チームが予選を勝ち抜いてくれて本大会に進出。その時点で処分が解けて、念願だった沖縄県代表のユニフォームを着て出場することができました。

自分はフォワードとして初戦からゴールを決めて勝ち上がり、決勝では優勝候補の千葉県と引き分けて同校優勝。ベストイレブンに選ばれました。2校優勝でしたが初の全国頂点は気持ちよかったですね。

そこから進路はとんとん拍子で話が進みました。元Jリーガーで当時J1の京都サンガF.C.の監督をしていた加藤久さんが那覇市でヴィクサーレ沖縄の理事長をしていたこともあり、加藤さんを通じて京都の練習に2年生の頃から参加させてもらっていました。

3年生になると他クラブからも声をかけてもらいましたが正式に京都からオファーを頂いて入団が決まりました。

小学生からずっと口にしていた目標が叶ったので、やってやった感はすごいありましたね。ずっと周囲からは「お前は無理」と言われてきたので。

これは個人的な意見ですが、島のようなコミュニティーが狭い場所で暮らしていると同調圧力というか、上を目指したり目立つことをしたりする人間の足を引っ張るような言動が目立つと感じます。

子供の夢を育み応援するべき一部の大人が現実の厳しさを教えるという体裁でそういう言葉を発するのは残念でしたね。

でも自分は絶対に諦めなかった。結局やるかやらないかは自分次第だと感じました。

 

デビュー戦は2万人の中で

―憧れのJリーガーとして第一歩を踏み出しました。

高校の時から練習参加をしていたのである程度は通用するものだと思っていましたが、全くの思い上がりでした。今までできていた事が全く通用せずレベルの差を痛感しました。

全国トップクラスの逸材がしのぎを削る場所なので当たり前と言えば当たり前ですが、ショックだったのは自分の中に1つでもライバルたちよりも秀でているものがなかった事。まずは体力をつけないと1年は試合に出られないと覚悟しました。

そこからは周囲に追いつこうと必死でしたよ。コーチも居残り練習に付き合ってくれました。

毎日くたくたでしたが徐々に走れるようになってプレーにも余裕が出てくるようになり、1年目のシーズンが残り5試合となった時にベンチ入りをすることができました。

その年の京都は激しいJ1残留争いをしていて、この試合に負ければ順位が入れ変わるという浮沈をかけたジェフ千葉戦がデビュー戦となりました。

千葉に1点リードを許した後半に監督から声がかかりました。2万人の大声援の中、失うものはないという気持ちで積極的に仕掛けました。

するとエリア内で自分が仕掛けてカットされたボールが味方に当たってそれが同点ゴールに。もうその瞬間は頭真っ白でしたね。そこで勝ち点1を積み上げたことで残留に大きく前進しました。

 

一転して戦力外へ

―結果を出したことでプロ2年目に大きな期待をされていたと思いますが。

自分も期待していました。しかし開幕前のキャンプで大けがをしてしまい、結局シーズンを棒に振ることに。再起を目指してリハビリに励む日々でしたが、プロになって精神的に一番苦しい時期でもありました。

3年目の開幕になんとか間に合いましたがブランクもあってなかなか結果を出せず、夏にフロントから呼び出されて「経験を積んで戻ってこい」と当時JFL所属のFC琉球へのレンタル移籍をシーズン途中に言い渡されました。

でも自分の中では片道切符だと思っていました。

予想通り翌シーズンからは琉球に完全移籍となりましたが、技術レベルや環境面での差以上に自分のモチベーションがなかなか上がらなかったです。プレーをしていてもどこか地に足がついていないというか。

今から考えればこれも1つのチャンスのはずだったのに、自分の甘さもあって非常に勿体ない事をしたと思います。

結局、琉球では約2シーズン半所属して33試合4得点という成績で戦力外となりました。

 

海外生活が教えてくれたこと

―その後はどの様なキャリアを積まれてきましたか?

もう一度何がしたいのかと自分の向き合った時に出た答えがサッカーでした。敢えて厳しい環境に身を置くことで自分の甘さをそぎ落とそうと海外のクラブに挑戦しました。

オーストリアとスロバキア、タイ、フィリピンと様々なクラブでプレーし、2017年に所属したフィリピンのJPVマリキナFCでは日本人初の得点王を獲得することができました。

よく言葉や生活面で苦労を聞かれますが、自分としてはサッカーをしたくて海外に行ったのでサッカーをしているだけで幸せでしたし、試合中はプレーが会話となります。言葉はそれほど重要ではありませんでした。

それに京都時代に加藤久監督に言われた「お前は友達を作りにここにきたんじゃないぞ」という言葉がずっと心に残っている事も大きかったです。

確かに自分が活躍する事でチーム内の誰かの生活を奪うことになる。そういう厳しい世界に自分はいるのだと。

それに海外では自分は助っ人選手です。オーストリアの3部チームですら負けた翌日の街の人達は冷たくて、勝った翌日には大拍手で喜んでくれる。それだけ皆、勝負にこだわっているんですね。

プロとして遅いぐらいでしたが結果を出し続けることの大切さと難しさを海外で経験できた事は自分の大きな成長につながりました。

 

ビーチサッカーとの出会い

―その後に大きな転換点を迎えます。

2018年に所属していたチームで外国人枠の入れ替えがあった事で戦力外となり、最後のチャレンジは日本でやりたいと思い帰国しました。

プロにこだわってJ2以上のチームを探していくつかのクラブに練習参加しましたが契約には至らず。

J3のチームからはオファーはあったのですが年齢的にもその先の展望が見えなかったので、サッカーで食べていけないならと引退も考えはじめました。

その時、沖縄のサッカー関係者に「ビーチサッカーに挑戦してみないか?」と声をかけてもらいました。

 

上里琢文さん

上里琢文さん

 

全く考えたこともなかったので最初は戸惑いがありましたが、実際にボールを蹴らせてもらったら難しいけどもすごく楽しくて、自分の中でこのスポーツに挑戦したいという気持ちが強くなりました。

そしてやるならば本気で日本代表を目指したい。そのチャンスがビーチサッカーにはあります。2020年9月からはビーチサッカー界で優勝常連クラブになっている東京ヴェルディBSに所属することができ日本代表候補にも選ばれました。

 

 

まだまだ経験は浅いですが、サッカーで培ったゴールへの嗅覚や視野の広さを生かして最終メンバーに残って2021年8月、ロシアでのビーチサッカーワールドカップを戦う事を目標に日々頑張っています。

サムライブルーのユニフォーム姿で活躍する姿を沖縄の人達に見せることが一番のモチベーションになっています。

 

何事もやってみないとわからない

―読者にメッセージをお願いします。

色んな分野で活躍する人たちもそれぞれの出身地があります。最初からチャンスに恵まれていたのではなく、自分で動いて情報を掴み、人とのパイプを作り、今の夢を実現してきた人たちがほとんどだと思います。

だから今いる環境だけを見て「自分には無理だ」と諦めないでください。人の成功は出身地には左右されません。

特に沖縄はスポーツや芸能分野で多くのトップランナーを輩出している場所です。その血筋を皆さんも受け継いでいる事を誇りに思って欲しい。

自分が諦めなければ時間はかかるかもしれないが、目標には確実に近づきます。自分も30歳からの挑戦の真っ最中です。

その目標が高ければ高いほど時には自信を無くしたり、周囲の心無い言葉を受けたりすることもあるでしょう。

でも辞めるも続けるも決断は自分次第。人生の主人公はあなた自身なのです。

その時は「やっぱり無理か」という弱気な言葉でなく「やってみないとわからない」というポジティブな信念を持って突き進んでもらいたいと思います。

きっとその先に今まで見たことがない世界が広がっているはずですから。

 

上里琢文さん
上里琢文(うえさと・たくみ)

1990年宮古島市生まれ。宮古高校から宮古島2人目のJリーガーとして2009年に京都サンガF.C.(当時J1)に入団。同年に初出場を果たす。11年にFC琉球(当時JFL)にレンタル移籍後、12年に完全移籍。13年に琉球退団後、14年-16年はSVアラーハイリゲン(オーストリア)、16年―17年JPVマリキナFC(フィリピン)に所属し、日本人初の得点王に輝く。18年セレス・ネグロスFC(フィリピン)からJPVマリキナFCを経て帰国後、ビーチサッカーに転向。20年9月から東京ヴェルディBSに所属。10月には日本代表候補に選出。 YouTube「TAKUチャンネル~島んちゅの力~」でビーチサッカーの魅力を発信中。 Instagramはtakumi_uesatoで検索。

【You Tube】https://www.youtube.com/channel/UCsXQSYmFAT2ADdFV6Is-Giw

【Instagram】https://www.instagram.com/takumi_uesato/

 

平良
上里さん、お話ありがとうございました!

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