「自分から動くことでつながりができる」石川元信さんインタビュー(鶴見沖縄県人会)

鶴見は第二のふるさとです。

そう語るのは、鶴見沖縄県人会員で映画『だからよ〜鶴見』仕掛け人のお一人、石川元信さんです。

「鶴見に住んでいなかったら沖縄に帰っていたかも」という石川さんだからこそお話出来る町の魅力、「まず自分から動くことでつながりができる」とする仕事論などについて、お話を伺いました。

目次

「3ヶ月の上京」のつもりが、気づけば30年

ー上京したきっかけをおしえていただけますか?

高校時代のアルバイト先の先輩が「東京にいきたい、3ヶ月くらい仕事をして遊んでから帰ってこようかな」という話をしていて、「3ヶ月くらいなら俺もいこうかな」というのがきっかけでした。

その先輩のお兄さんが台東区に住んでいて、そこに住ませてもらいながら先輩のお兄さんが勤めていた水道屋さんでアルバイトを始めました。

ただ自分には向いてないと思い始め、1ヶ月で「沖縄に帰ろう」と決めました。20万円くらい手元にあったのでそのお金で帰ろうと。

それを先輩たちに伝えると「じゃあ飲みに行こう」ということになりました。

その際、お金のないはずの先輩たちがやたら羽振りが良かったんです。「今日は飲め。もう帰るんだろ」と。一次会・二次会とハシゴしてやけに景気が良くて。

てっきり先輩たちが送別してくれたと思いきや、違ったんです。自分が沖縄から持ってきたお金が無くなっていて。先輩のお兄さんがそれを取って飲み代にしていたんです。

石川元信さん

朝起きてみてびっくりですよ(笑)

それで帰るに帰れなくなりました。働いてお金を貯めてそれで帰ろうと。

先輩たちもお金を返すと言ったのに返してくれず、給料も思っていた金額もらえなくて、めちゃくちゃ安かったんですよ。

上京した当時はまだバブルの余韻があって、もっといい仕事があるだろうと思い、その職場はやめました。

次の職場は東芝の府中工場に移って、外の扉の溶接や組み立てをすることになりました。溶接作業は初めてですが、工場では丁寧に教えてくれたんです。その時に「あ~溶接っておもしろいな」と。

そして鶴見でアパートが見つかり住み始め、気づいたら30年が経ちました。

ー3ヶ月で帰る予定が、気づいたら30年になるんですね!

川崎に住んでいたら、また違っていたんじゃないかと思います。鶴見は沖縄の人も多くて県人会も結構盛んだったから今まで残っていたんじゃないかと思いますね。川崎にも県人会はあると後から知ったのですが。

鶴見に住んでいると県人会に頼らなくても周りが沖縄の人ばかりなんです。飲み屋さんにいくとみんな沖縄の人(笑)。お酒を飲むとすぐ仲良くなるんですよ。そこから横のつながりを作っていってって感じでしたね。

ー石川さんは工業高校卒とのことですが、溶接はご経験があったんですか?

いえ、溶接とは無縁でした。溶接を始めたのは府中工場時代でそこで相当鍛えられました。

当時、溶接が楽しすぎてお昼ご飯を食べたらすぐに工事に戻ってずっと練習していましたね。練習の成果もあり、溶接のメイン技術「アーク溶接・半自動溶接・ティグ溶接」の三つを習得していましたね。

府中から川崎に出てきて、溶接の仕事をしていると「お前すごいな!出来るな!」と言われて自信になりました。

川崎に移った際に教えてくれた方が、実は溶接があまりできなくて(笑)。現場仕事を経験するたびに「こういう仕事に向いてるな」という思いが強くなりましたね。

独立して最初の仕事で大赤字!

ー独立に至った経緯を教えてください。

同級生の友達が鳶職人で独立してたんです。彼と飲んでる時に「石川さんも独立したら?仕事がなければうちで面倒みるよ」と言われ、思い切って独立することにしました。

独立当初は足場屋さんの手伝いに行っていました。その方が、私がやっていた溶接の仕事も受注していて、主にそれを担当していましたね。

ー独立してすぐに発注先もあり、安定したスタートですね。

それがそうでもなくて(笑)。

ある日、仕事を振ってくれていた方と飲んでいると「いや~最近うちも暇で、仕事が無くなってきてしまってさ」という話になり、次の仕事がない状況になりました。

そのタイミングで弟は会社を抜け、私は残ったもう1人と2人で知り合いの伝手で別の現場に入りリスタートしました。

ただ実は、抜けた弟が足場屋さんに移って仕事を内側で回していたんですよ。ようは引き抜きですね。それが悔しくて。

そこから「今にみてろよ」という気持ちでがむしゃらに働きましたね。

その人を反面教師にして自分は横のつながりを大事にしていこうと思いましたね。つながりを大事にしていると、困ったときに結構周りも助けてくれるんですよ。

そこからは必死に働いていましたね。かれこれ4年半ほど行い資金を貯めて正式に石川工業として法人化しました。

ーいよいよ法人化して、ここから飛躍の始まりですね。

それがまたそうでもなくて(笑)。平成17年に法人化して最初に受けた工事で大赤字ですよ。

山梨の高速道路の橋桁の補強工事をする仕事を受けたんですが、その工事中に台風が直撃して川が増水して工事器具がすべて流されてしまったんです。工事の金額が130万円だったんですが、130万円の赤字になってしまって。

さらに、川の下流でマスを養殖している業者から莫大な金額の損害賠償が来ました。エンジンの油が流出して養殖している魚が死んでしまったんですね。そこは元受け業者がなんとか示談で解決してくれましたが、トータルで130万円の赤字でした。

石川元信さん

なんのために受けたんだろうって、かなりへこみましたね。

それでも色々とご縁をいただきなんとか業務をこなしていました。

だいたいの仕事が下請けで、ほんとは上に行きたいんですけど行けないんですよね。それをやってしまうと他の業者さんとの信頼関係にも関わるので地道に下請けとして頑張っていました。

そうこうしているうちにある会社と出会い、そこから仕事を受けるようになっていきました。その会社も後継者がいなくて「自分の会社だけ儲かってもだめだ」「あなたも同じ立場にたって稼ぎなさい」と言って引き上げてくれました。

そのおかげで元受け業者と同等の立場で発注会社から口座を開いてもらうことができました。発注会社は日本有数の大企業です。

それが転機になりましたね。その社長に巡り合っていなかったら、今の社屋もたっていなかったんじゃないかな。本当に感謝しています。

元受け業者を飛び越さないで、ずっと我慢して頑張ってきたのが報われんだと思いますね。

石川元信さん

ちゃんとやってきたからこそ、その社長も認めてくれたんだと思いますね。

まず自分から動くことで、つながりができる

ー当時、直受け業者の中ではかなり若いほうだったんじゃないですか?

そうですね。周りからの批判、嫌がらせは結構ありましたよ。ただ私としてはいろんな面で助け合うようにしていましたね。

例えば当社で使っていたクレーンも早めに終わっていれば、突発的にクレーンが足りなくなった会社さんへ貸したりもしていましたね。

私たちが貸してと言っても貸してくれなかったんですよ。それでもこっちからやってあげていて。

やっぱり自分からまずやってあげないと、相手もやってくれないんだなと思いましたね。

そこから横のつながりや協力体制が出来て、だいぶやりやすくなりましたね。

ー相手が助けてくれない中で、石川さんは相手のお願いに応じる姿勢がすごいですね。

こっちの仕事はもう終わっていて、クレーン代は一日分払っているわけですから、機材も使われずに遊んでいるだけなんですよ。使用代金も受注工事でしっかりいただいていましたし、こちらにとっては何の痛手もないですからね。

それなら「困っているなら貸しますよ」って感じでしたね。そうして他社とも仲良くなっていったんで、これでいいやって(笑)。

鶴見は第二のふるさと

※鶴見のPR動画制作時の様子

※ちむどんどん横浜鶴見プロジェクトメンバーでハーリー大会参加

※ちむどんどんするまち横浜鶴見プロジェクト

※鶴見ウチナー祭cupゴルフ懇親会

※朝の連ドラ、おかえりモネの舞台視察で気仙沼視察

※鶴見沖縄県人会メンバー

ー石川さんにとって鶴見の街はどんなところですか?

石川元信さん

第二のふるさとですね。

沖縄に住んでいるのとそんなに変わらないというか、近くに沖縄の人もたくさんいますし、方言も聞こえてくる。

鶴見という街には恩を感じていますね。恩返しのために鶴見沖縄県人会にも入っていて現在副会長も務めています。

沖縄に行かないと食べられない料理も鶴見にはある。沖縄にいるのとそんなに変わらないですね。鶴見にいても沖縄にいる感覚ですね。

鶴見は沖縄文化を感じられる街だけでなく、沖縄から南米に移住したうちなんちゅの2世、3世が戻ってきて住んでいて沖縄と南米の文化がチャンプルーされてとても面白い街になっています。

仲通のみちじゅねーやサンバカーニバルなど、魅力的なイベントも行われています。

映画の題材になっている角力(すもう)も沖縄以外では鶴見でしかやっていませんし、例年沖縄からも参加者が来るくらい賑わっています。

そういう街の魅力を、映画などを通してどんどん発信していきたいですね。

ー鶴見をテーマに制作された映画『だからよ~鶴見』には地元愛を感じます。この映画と株式会社riverstone設立の経緯について教えていただけますか?

Riverstoneの前身は『だからよ~鶴見実行委員会』です。

鶴見を舞台にした映画を作ろうという話で、企画メンバーで飲んでいた際に渡辺監督から「石川さん、だからよ~って、どういう意味ですか?」と突然聞かれて、「だからよ~」は話の流れで意味が変わるからそこだけ切り取られたらわからないですよ、としか答えられなくて。

「だからよ~って、深いね」という流れで映画も『だからよ~鶴見』になりました。

映画を撮り終えた後に「これで終わりではなく第二弾もやろうね」という話になり、であれば会社としてやりましょうと。それで法人設立しました。

それ以外にも街の広報動画を作成して配信したりしています。駅長さんから「公開後3割くらい乗降者数が増えてますよ」という話を聞いて嬉しかったですね。

ー石川さんの中で、鶴見でこういう仕掛けをしたらより盛り上がるんじゃないかという構想はありますか?

鶴見の仲通商店街を盛り上げたいですね。沖縄県人会館がある通りを拠点に、その商店街を沖縄の国際通りみたいに出来たら良いなと。

シャッター街になっている部分もあるので、そこを一般に開放して、お店やりたい人たちが集まって盛り上げてくれたらよいなと思っていますね

「鶴見の国際通りいこうよ」みたいな感じで街に人が集まってくれると良いなと。

第一歩の取り組みとして、県人会館の通路でちむどんどんのパネル展をやっていて、そこをテレビのセットに見立てて内装を変えて展示しています。

ちむどんどんの効果で鶴見に来る人も増えているので、その人たちにもっと鶴見を知ってもらおうという取り組みを始めています。

ちむどんどんの撮影が終わったあとはセットなども譲ってくれるようなので、それらを県人会館でも展示していけたらなとは考えています。

ーこれから上京を考えているうちなんちゅ、もしくは上京間もないうちなんちゅに向けて一言お願いします。

沖縄から上京してきてホームシックになったらぜひ一度鶴見に遊びに来てほしいですね。沖縄を感じられる場所がここにはあります。

2025年に県人会館を立て替える構想があって、そこで沖縄から鶴見に出てきたい学生さんや新社会人たちを県人会で受け入れようという話が出ています。

鶴見の街で受け入れ体制を作っていこうよ、ということを考えています。ぜひお越しください!

沖縄工業高校電子科卒業後、18歳で上京 東芝エレベーター府中工場勤務後、川崎市内の溶接関連会社を経て 28歳で独立、有限会社石川工業を設立。 鶴見を舞台にした映画『だからよ~鶴見』撮影を機に 株式会社River Stoneを設立。 第二の故郷鶴見を盛り上げるため、鶴見沖縄県人会副会長も務める。

【石川工業ホームページ】http://www.ishikawa-kougyo.jp/

平良英之

石川さん、お話ありがとうございました!

追記:川崎駅の石敢當(いしがんとぅ)

石敢當
石敢當

JR川崎駅のバスロータリーには石敢當(沖縄の厄除けのお守り)があります。

昭和41年、沖縄諸島は数多くの台風被害に襲われて甚大な被害がでました。その際、川崎市議会は超党派で救援を決議して救援活動を展開してくれたそうです。その御礼として沖縄から送られたのがこの石敢當です。

鶴見と並び、沖縄と縁が深い川崎を象徴するもののひとつです。近くに寄られた際はぜひご覧ください。

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この記事を書いた人

東京沖縄県人会広報理事。「東京都沖縄区」代表。AFP、二級ファイナンシャルプランニング技能士、住宅ローンアドバイザー、証券外務員2種。1983年生まれ。宮古島市出身。

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