「常に夢追い人になれ」仲松健雄さん(東京沖縄県人会9代目会長)インタビュー

夢を持ち、夢を語り、その夢が伝わるま伝え続ける。

そう語るのは、東京沖縄県人会9代目会長の仲松健雄さん(那覇市出身)です。

加山雄三さんに憧れ慶応大学で謳歌した青春時代、親孝行で継ぐと決めた父の事業、「沖縄とは100%無関係だった」ところから東京沖縄県人会会長にいたるまでの道のり。

そして様々な組織のリーダーを務めた経験から得た「夢は伝わるまで伝える」「すべての手を尽くす」「良い付き合いが人生を変える」という信念、若者へのメッセージなどについてお話を伺いました。

目次

加山雄三さんに憧れ、謳歌した青春時代

ー子供の頃はどう過ごされていましたか。

割と社交的でしたね。母親にも言われてましたね。「あっちこっちで友達と楽しくやって、たーぼーは社交的でいいね、いろんな人と付き合いなさい」と。

クラスのリーダー的な立場ではなかったけど、引っ込み思案でもなく、むしろ前に出ていって人とよく付き合う子供でした。

ー慶応大学への進学を目指したきっかけは何でしょうか。

一番の理由は加山雄三さんだったんです。

ちょうどその頃、加山さんが20代で「海の若大将」とか「エレキの若大将」とか若大将シリーズをずっとやっていたんです。かっこ良くてね。歌もうまいし顔も良い憧れの人だった。

彼は慶応の法学部出身なんですよ。それで映画スターになって。

「加山雄三に近づきたい」これが最初の夢でした。

でも当時の沖縄は復帰前で本土との学力差が大きく、まともに受験するとどこの大学にも入れないような時代。

「国費・自費沖縄学生制度」があったけれど慶応大学は対象外。だから本土の人と同じ土俵で戦うしかない。

国費自費留学制度とは、復帰前の沖縄県において本土の大学への進学を支援するために設けられた制度。一般の入試とは別に沖縄県出身者の定員枠を設けられ、政府から学費の援助なども行われた。

当時の先生に「仲松、地力で慶応を目指すのは無謀だよ。安全な道を選べば?」と言われたけど私は「慶応行きたいから同じ土俵で挑戦します。戦って駄目なら諦めます。二浪まではやります」と。

それで結局先生も「君がそう思うならやりなさい」と。父からも「自分のやりたいことをやりなさい」と。

そして高校卒業して昭和45年の4月にドルとパスポートを持って上京しました。その時に親からもらって持ってきたドルは当時の思い出が詰まった宝物ですね。

ありがたいことに父が東京でも事業をしていて住む家はあったんですよ。

代々木ゼミナールでの浪人の1年が人生で一番勉強しましたね。トイレで単語帳を広げ、電車でも本を開き。朝から晩まで受験受験。

父に「滑り止めを受けたら」と言われましたが「慶応に行けないなら二浪する」と即答したら下を向いて(笑)。

それで慶応大学に合格しました。

仲松建雄さん

大きな目標でも努力すれば実現できる。そんな成功体験を得た最初の出来事でした。

学生時代は浪人時代の反動で遊びまくりでしたね(笑)。でもそういう仲間との遊びに大事なことがあったりする。

当時の遊び仲間が今では東証一部上場企業の役員となったり、出世した人はたくさんいます。

親孝行の思いで父の事業を継ぐ

ー大学卒業後について教えていただけますか。

もともと金融に興味があって勉強もしており、銀行や証券会社など含め就職面接はいろいろ受けました。

ただ重役面接まで行って落ちた時に言われたのは「仲松さんは長男で、お父さんが事業をしてるのでいずれ沖縄に戻るんですか」と。

当時は面接で親のことも書かされたんですよ。採用しても2~3年で辞めると思われてたのかも知れませんね。

私は定年まで務めるつもりだったのですが、なかなかうまく決まりませんでした。

それでも朝日生命にご縁があって入社することができ、長くお世話になりました。

ーお父様の事業を継ぐきっかけは何だったのでしょうか。

当時、父の経営する会社は社員50名くらいで沖縄でも良い会社でした。

ある日、実家に遊びに行った時に父から「私も年だから事業を継いでくれないか」と言われまして。

私は朝日生命が好きだったので「定年まで勤めて沖縄出身者として役員やる」と。最初は継ぐ気はありませんでした。

するといつも明るく楽しく泡盛を飲む父がね、ほんとに悲しそうな顔するわけですよ。そんなに父の落ち込む姿を見るのは初めてだった。「悪いことしたかな」と。

その時「ああ、親にお世話になって今があるのに親孝行できないのはやっぱり人の道に外れるんじゃないか」と。

そこで2年かけて少しずつ準備して会社を辞めて。

仲松建雄さん

私が会社を継ぐことを告げたら親父がすごく喜んじゃって(笑)。

退職金も良かったものですから、自分の会社「株式会社メディア・ワン」も合わせて立ち上げて経営者としてスタートしました。

その後は株式会社サンシャインや株式会社タワーホテルアンドリゾート(ロワジールホテル豊橋)などでも代表を務めさせていただきました。

「40代になったら故郷に貢献したほうが良い」

ー東京沖縄県人会会長になるまでの経緯はどのようなものだったのでしょうか。

自分の会社を伸ばして社員を育てるにはやはり社長の経営力、感性を磨かねばと痛感しまして。

それから関東沖縄経営者協会にも顔を出すようになり、その時、重田辰弥さん(関東沖縄経営者協会7代目会長)に「もう仲松君も40歳を過ぎたんだからふるさとの沖縄に貢献したほうが良いよ」と言われまして。

重田辰弥さんと

それまで上京して30年くらいでしたが、実は沖縄の人との関わりは100%ありませんでした。

仲松建雄さん

沖縄をほとんど忘れていました(笑)。

だけど重田さんに言われた時にパッと目覚めて。「沖縄のために何もしてないな」「沖縄の人と関わりたいな」と。

それですぐ関東沖縄経営者協会に入りました。

当時の会員は40名くらい、60~70歳くらいのベテラン経営者ばかりで私が最年少。協会の強化プランを作るなど頑張ってるうちに私が会長をやることになりました。

すると渡久山長輝さん(東京沖縄県人会8代目会長)から「県人会の会員にもなってよ」と言われて。

それで1年くらいしたら「これからは若手の時代だから、君が副会長やって」と言われて。

普通は会員を5~10年やって、それから理事をまた5~10年やって、それから常任理事になって副会長になるんです。それがいきなり抜擢ですよ。

「ちょっと待ってください、先輩方に申し訳ないです」と言うと「そんなことはない、これからは若手が大事なポストについて県人会を伸ばしていくのが必要だ」と。

ただ、私が関東沖縄経営者協会の会長をやってるのも皆さん見てくださっていたので、意外と異論は少なかったみたいです。

しかし、副会長を務めて1年たったら今度は「仲松君、私はもう引退するから会長やって」と。

仲松建雄さん

県人会に入って2年、副会長やって1年ですよ(笑)。

その時私は60歳ちょっと。それまで会長はだいたい75歳以上で功成り名遂げた方がなっていたんです。さすがに「大先輩方に申し訳ないです」と言いました。

そしたら渡久山さんが言うんですよ。「仲松君ね、アメリカの大統領を見てごらん。オバマは40代なんだよ」と。

仲松建雄さん

うまいこと言うなあと。それで一本取られて何も言えなくなっちゃいました(笑)。

それで結局受けることにしました。今思うと渡久山さんはもともと私に会長をさせようと引っ張ってきたのかもしれませんね。

その後、東京オリンピックへ向けてのイベント実現や2022年5月開催の「日本復帰50年記念 沖縄芸能フェスティバル2022」に向けて様々な目標を発表してきました。

やっぱり夢はみんなの前で言わなきゃだめなんです。自分も逃げられなくなるから公言するのが大事。

あとはひたすら行動です。ひとりの力では無理なので組織を動かさなきゃいけない。様々な方にお力も借りながら現在に至っています。

今回、50周年フェスを企画して注目度が上がり、メディアからも取材が多く入ってきて注目されています。

東京沖縄県人会が全国に知れ渡り、ステータスや知名度が上がっていく。

すると会員が誇りを持ってやる気になり、次の新たな夢に力強く向かっていけるようになる。

仲松建雄さん

ひとつの成功が次につながるんですよ。そのために何が何でも今回のイベントは成功させたいと考えています。

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夢は「伝わるまで」伝え続ける

ー仲松会長は様々な組織でリーダーをされてきましたが、人を動かすコツは何でしょうか。

仲松建雄さん

まず自分の夢を、思いを語り続けることが大事ですね。「伝えさえすれば良い」ではなく「伝わる」ことにこだわる。

そのためには飲み会など顔を合わせるコミュニケーションが大事です。

あとぶれてはいけませんね。相手にされなくても言い続ける。やり続ける。

組織ってのは「さしみの法則」でね。何かを打ち出した時に3割が賛成、4割がどちらでもない、3割が反対に大体分かれるんですよ。

その時のポイントはまず「どちらでもない4割」にしっかり思いを伝えて味方につけることです。そのほうが早い。

すると不思議なことに反対の3割も徐々に味方になってくれる。

私も県人会では最初は相当抵抗ありましたよ。若手で会長になったということと、あとあまりにも言うことが大風呂敷だと(笑)。

それでもこれらを心がけることで、少しずつ目標をかたちにしてきました。

若者に向けて

ー夢を叶えたい若者へメッセージをお願いします。

仲松建雄さん

夢を実現するには自分で強く思うこと、語り続けること、ありとあらゆる手を尽くすこと。これが大事なんですよ。

ある程度までは苦しいけど賛同者が増えてくると一気に道が開けて夢が実現に向けて加速する瞬間があります。それまでは言い続ける。やり続ける。

それまでの低空飛行を耐えるコツは「良い人と出会い、付き合うこと」です。

誰と付き合うかで人生が変わってくるんですよ。運が良い人、前向きな人と付き合うと感化されて自分も良くなっていく。

暗くて後ろ向きで批判ばかりの人もいます。そういう人と付き合うと自分も同じになっちゃう。付き合う人を選ぶことが大事ですね。

夢が大きくて前向きで心優しい人。人格、風格、品格、この「3格」を持ってる人と付き合う。その人は運が良い人なんですよ。

仲松建雄さん

そういう人と付き合うと活性化され、自分の夢も実現に近づいていくと思いますよ。


仲松健雄(なかまつ・たけお)

1952年1月生まれ。那覇市出身。那覇高校→慶応大学商学部卒。東京沖縄県人会9代目会長。関東沖縄経営者協会8代目会長。株式会社メディア・ワン、株式会社松栄代表取締役。株式会社サンシャイン代表取締役社長(2006~2010年)。株式会社タワーホテルアンドリゾート(ロワジールホテル豊橋)代表取締役社長(2012~2015年)。

【Facebook】https://www.facebook.com/takeo.nakamatsu

【東京沖縄県人会】https://okikenjin.org/

平良英之

仲松会長、お話ありがとうございました!

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この記事を書いた人

東京沖縄県人会広報理事。「東京都沖縄区」代表。AFP、二級ファイナンシャルプランニング技能士、住宅ローンアドバイザー、証券外務員2種。1983年生まれ。宮古島市出身。

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