しまんちゅ仕事論

「東京は行動を起こすことの大切さを教えてくれた」知念広子さんの仕事論(バリアフリー事業)

知念広子さん

そう話すのは、バリアフリー事業に取り組まれている知念広子さん。

難病を経験しながら東京での生活を実現するものの、「外見でわからない身体の不自由」によって人と人の心の壁を感じ、それを無くすことを志して活動されています。

その中で見えてきた東京という街の特徴、故郷の沖縄を振り返って見えてくるもの、これからの夢を教えていただきました。

 

小5で発症した病気。完治はないと言われた

知念広子さん

 

―現在のお仕事について教えてください。

コールセンターで働きながら外見からは判断できない内部疾患を持つ人達への理解やサポートの輪を広げるクラウドファンディングを立ち上げました。

助けを必要としている人と手を挙げる人の意思表示を表すキーホルダーを作成して思いやりを可視化し、双方向のコミュニケーションを促すことが目的です。

―沖縄ではどんな幼少期を過ごしていましたか?

3人姉妹の末っ子で幼少期は外で遊ぶことが大好きな活発な子供でした。男の子のように飛んだり跳ねたりして毎日泥んこになるまで遊んでいた思い出があります。

小学校5年生からはバレーボールを始めたのですが、左足ふくらはぎに痛みを感じる日が多くなりました。最初は何だろうと思っていましたが、腕を骨折したのを機に精密検査をしたところ、良性の腫瘍の一種である血管腫と診断されました。

通常は赤ちゃんの時期に発症することが多く成長と共に消えていくものらしいですが、私の場合はある程度大きくなってからだったので完治はないと言われました。

患部がふくらはぎに広がっていたことで筋肉がひっぱられて左かかとがつかなくなり、痛みや痙攣も出始めました。

高校入学前にはアキレス腱の手術を行い、1年間かけて杖から開放された生活を送れるようになりました。

不運にも病気を発症した時に父親も脳内出血で倒れてしまい、家族は大変でしたが母がとても前向きな人で「大丈夫よ!」といつも励ましてくれたお陰で必要以上に悲観視することはなかったと思います。

また学校の友達もそんな私を特別視することなく接してくれたので、運動ができない事以外は普通の学校生活を送ることができました。

―卒業後に県外に出ることは決めていたそうですね。

いつかは東京で暮らしてみたいという思いがありましたが、いきなりだと不安があったので高校卒業後は2年間限定で福岡県での生活を始めました。

音楽や舞台への憧れもあって芸能事務所に所属してレッスンを受ける日々でしたが、病気の影響から真っ直ぐに立って「気をつけ」ができないんですね。どうしても左足が前になってしまうので、相手への心象が悪くなってしまいます。

残念ながらお仕事を頂くようになるまではなりませんでしたが、それでも沖縄を離れて1人で生活できるようになったことは大きな自信になりました。

―2017年春に念願の東京に進出されます。

接客業に興味がありましたが左かかとが地面につかないので、どうしても右半身でバランスを取る必要があり、長時間の立ちっぱなしなどが出来ない為、座りながら仕事の出来るコールセンター業務に就きました。

コールセンターだと病気の事や仕事をする体勢にも理解をしてくれているので安心して生活の糧を得ることができました。

でも最初の頃は仕事への向き合い方の違いに驚かされましたね。沖縄にない厳しさというか、間違い1つにしても指摘の仕方が全然違う。責任というものをより強く意識させられました。

働き始めの頃は「そんなに強く言わなくてもいいのに」と心が折れて、いつも沖縄に帰ることばかりを考えていましたが、周囲の同僚を見ていると例えミスを犯しても反省はしても卑屈になっている人は誰もいなかった。

教えてくれているのだから逆に有難うと思えばいいと考え方が大きく変わったのは東京に出てきて良かった事です。

 

外見からは分からない。内部疾患ならではの苦しみ

―その後、東京で辛い体験をされました。

現在は松葉杖などを使用しておらず、一見すると何も不自由ないように見えますが、階段の登り下りにも人一倍体力を使いますし、足の痛みの大きい日もあります。

そういう状況で電車やバスなどで優先席しか空いていない場合は利用せざるを得ないのですが、周囲からの反応は正直温かいものではありません。

ある時は正面に立たれて睨まれたり、年配の方からは「若いのだから席を譲りなさい」と言われたり。ひどい時は指差しされて「バカ」と言われた事もありました。

『優先席はお年寄りや体が不自由な人が使うべきもの』という正義感があってのことなのでしょうが、私の様に外見では分からない内部疾患がある人間にとってはとても辛く悔しい出来事でした。

昨今では援助を必要とする達に向けた赤いヘルプマークがあり、自分も利用してみようと思ったのですが、当然ながら目立つように大きく表示された白抜きの十字とハートのデザインをつけることはハードルが高く、必要以上にネガティブに見られてしまうのではという思いもあり躊躇しました。

またこういった既存の福祉関連のマークはまだ社会に浸透しているとは言えず、どうしても身につける側(当事者)だけが知っているという感覚のギャップも感じていました。

仮にそのマークの存在を知っていても日本人特有の気恥ずかしさでサポートを申し出ようとしても相手の反応を気にしていまい、躊躇している人も決して少なくないと思います。

こうした内部疾患を持つ人達の苦しみを少しでも軽減し、お互いが気軽な形でコミュニケーションを図る手段はないだろうかと考えるようになりました。

 

思いやりを可視化したい

―立ち上げたプロジェクトについて教えてください。

「思いやりを可視化できる役割を付けた2色のキーホルダーを作ってみよう!」と考え、海外で事業を立ち上げた経験もある従兄弟の赤嶺伍輝(ともき)に相談し、このプロジェクトをクラウドファンディングに掲載する運びとなりました。

 

キーホルダー

 

赤色はサポートを必要とする人、黄色はサポートしますよという意思表示を表し、「Consideration(思いやり)」と「Thank you(ありがとう)」の頭文字を取ったシンプルなロゴを入れ、普段から気軽につけることが出来るデザインにしました。

また2つの単語を1つの造語“Considerathank”にすることで、双方の思いを1つにしたいという気持ちを込めました。

製作はクラウドファンディング(https://readyfor.jp/projects/considerathank)を通して行い目標額の175万円をキーホルダー1万個の製作に充てます。

成功した場合にはホームページを立ち上げて継続販売やシール、T-シャツやバッグ等への展開も考えています。将来的には会社化して世界に日本人の思いやりを発信したいです。

見えない思いやりから見える思いやりへ。このプロジェクトが心と心のバリアフリーにつながれば嬉しいです。

 

 

行動次第で拡散力は何倍にも

―知念さんにとって東京はどんな場所ですか?

多様な価値観があり、自立した人が多く住むという印象です。当然、情報や人材が集まる場所ですし、何かを始めよう、発信しようと思えば行動次第でその拡散力は何倍にもなります。私もここに来て行動を起こすことの大切さを学びました。

また車や飛行機のみの沖縄と違い、陸路があるので移動の自由があるのが良いですね。県をまたぐだけで盛り上がります(笑)。

個人的にはライブや美術館など芸術文化鑑賞の機会があるのも嬉しいです。あとは交通機関が正確なので一日の計画を立てやすいのも魅力です。

―最後に読者にメッセージをお願いします

東京で生活を始めてまだ日も浅いですが価値観は大きく変わりました。最初は苦しい思いもしましたが、それは地方から東京に出てきた人は皆同じですし、生活をしていく中で得るものも沢山あると思います。

そして何よりも東京で暮らしてから改めて沖縄の魅力とウチナーンチュの誇り、そして家族の大切さを再確認しました。

特に沖縄から東京に出ることは他県と比べて勇気はいると思いますが、乗り越えた分は大きい。

行動を起こせばかならず返ってくるものはあるはずです。一度の人生、思い切り楽しんでください。

 

知念広子さん

知念広子(ちねん・こうこ)

1998年八重瀬町生まれ。 小学5年生で左足ふくらはぎに血管奇形を発症。左かかとが地面につかない内部疾患を負う。 小禄高校を卒業後、福岡での生活を経て、2017年春に東京に拠点を移すと、自らの体験を元に、内部疾患患者への理解とサポートを広げる社会事業を立ち上げた。クラウドファンディングを通じたキーホルダー製作への協賛を呼びかけている。応募期限は2020年2月13日午後11時。 詳しくはhttps://readyfor.jp/projects/considerathankまで。

 

平良
知念さん、お話ありがとうございました!

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