鶴見で沖縄アイデンティティーを引き継ぐ~下里優太さんインタビュー

まくとぅーそーけー、なんくるないさ!

NHKドラマ「ちむどんどん」で活気づく”関東最大の沖縄タウン”横浜市鶴見区。

ここを拠点に活動する株式会社おきなわ物産センター代表取締役社長、「ちむどんどん」横浜鶴見プロジェクト実行委員長の下里優太さんにお話を伺いました。

下里さんの経営者としての歩み、そして沖縄への思いとは?

(インタビュー日:2022年7月7日)

目次

上京して経営者へ

ー幼少期で今に繋がる象徴的なエピソードはありますか?

父親が鶴見で商売をしていて、父親に会いがてら小学校低学年ごろから手伝いをしたりしていましたね。

そのころから沖縄物産展についていき、「いらっしゃいませ」って言いながら父親についていき遊んでいた記憶があります。

一番覚えてるのは小学校6年のときに父親にディズニーランドに連れて行ってもらった時ですね。

多分親父も奮発して近くのホテルに泊まったんですけど、そこで「事業も軌道に乗ってきて良くなってきたから、将来継いでほしい」と言われました。なんか口説かれてるような雰囲気でした(笑)

それがターニングポイントになり、将来進むべき道が固まりましたね。

会社を継ぐと決めていたので、大学も経営学科に入って経営に関することを学んでいました。

ーおきなわ物産センターの設立の経緯は?

鶴見はもともと沖縄出身者も多くて、その当時は物々交換をしていたとのことです。

沖縄の親戚からポーク送ってもらってたり、野菜を送ってもらったり。でもなかなか不便ですよね(笑)。

そこで、ちょっと高いけど手軽に買えるようなお店として始めたのがきっかけですね。

父親が沖縄でスーパーを経営していて、その経験を活かして開業しました。

ありがたいことにお客さんが増えたので拡充して、物販と合わせて食堂も作って、そこからさらに店舗を広げて倉庫とそばの製造の工場を作ったっていうのが 30年前くらい前、1991年ですかね。

僕が入社したのが2005年で、その頃から今の体制になってましたね。

ーちゅらさんブームも追い風になったとか?

2001年にNHKで『ちゅらさん』が放送されたから、関東で沖縄ブームが起きましたね。その時はメディアの影響力の大きさを実感しました。

私が上京したのが2000年で、ちゅらさんを境にお店の問い合わせが爆発したのは今でも覚えています。

当時、おきなわ物産センターのような形式の事業は少なくて、当社がおそらく初だったと思います。わしたショップができたのが当社設立の翌年ぐらいっていう風に聞いているので、

小さいながらも地域に根差して経営していたのが身を結んだ感じでしたね。

ー事業を継ぐ上で苦労はありましたか?

新規事業として居酒屋事業を行い失敗したことですね。

父親も当時事業拡大をしたいという意向もあり、私が入社したタイミングで居酒屋事業を任せてくれました。

学生時代は居酒屋でのバイト経験もあり、チャレンジさせてもらいました。

横浜駅西口で2006年にお店をオープンして最初の1年はなんとか黒字で終えられたんですが、2年目からは赤字続きで(笑)。

5年間必死に運営しましたが立て直せずに閉めるになりました。

色々なことを管理しきれずにその時は力不足を実感しましたね。

親父はまだ続けたいという意向でしたが、私の中で先が見いだせずに一旦ケリをつけたくて撤退を選択しました。それが経営に関わる最初の決断でしたね。

ー経営者としての最初の決断が撤退だったんですね。

そうなんです。当時はまだ役員ではなく事業部長的な位置づけですが。

あと父親が社長を務めている時期は、何かあれば「社長に確認してみます」で逃げられたんですが、代替わりしてからはそういうわけにはいかなくて(笑)

ー経営においてどんなことを心がけていますか?

昔はじっくり考えてなるべくリスクが低くなるような選択肢を選んでいましたが、今は直感を信じるようにしたんですね。

代表取締役に就任して5~6年経過して色々経験した中で、直感があっていることも多かったので、今はそれを信じるようになりましたね。即断即決で行動あるのみです。

あとは、困ったときに相談できる仲間が出来たのも大きいです。石川工業の石川社長を筆頭に経営者の先輩も身近にいてそれも精神的に大きいですね。

鶴見と沖縄のつながり

ー鶴見に沖縄出身者が集まるきっかけは何だったんでしょうか?

1890年代の移民政策の時にまず横浜港に来て、それからブラジル行ったり、ハワイに行ったりの検査があって。

そこで検査を通らなかった人たちが鶴見や川崎に残ったらしいんですね。

それで1920年代ぐらいにこの京浜工業地帯に労働力として集まってきたのがきっかけと聞いています。

ー横浜・鶴見県人会館はいつごろ建てられて、どのような目的を持っていたんですか?

実は今の県人会館が出来る前にも1階建ての建物がありまして。そこから立て替えて今の会館が2代目ですね。

その頃の沖縄出身者は商売するにしても融資で受けられないとか、家が借りれないという問題があって。

そういう人たちのために模合をしながら集まって助け合っていたのが元々の県人会の集まりと言われてます。もう100年近くの 歴史があるという風に聞いてますね。

元々は郷友会として出身地ごとに集まっていたんですが、グループがいっぱいあってバラバラだとなかなか力が集まりづらいと。

じゃあ県人会として団結していこう、県人会館を作ろうとなり、そこから計画して、1980年にこの建物ができたとのことです。

1階がテナントスペース、2階は賃貸住居、3階はホールになっていて県人会の集まりや催し物を行っています。

3階は三線教室や舞踊教室などを行うほか、地域にも貸し出して公民館のような役割も果たしています。

建て替えも検討しています。今は3階建てなんですけど4階建ての建物へ。外観もシーサーがあったり赤瓦などを取り入れて沖縄のシンボルを取り入れて沖縄風にしたいと考えています。

費用が結構かかるので、その辺の資金集めもうちゃんと計算しながらやっていこうっていう話の段階ですね。

今ほんと物価も上がって、人件費・材料費も上がってるので、超えるべきハードルは多いですね。

ー「ちむどんどん」横浜鶴見プロジェクトは県人会だけでなく、街が一丸となって実施されているんですね

そうですね。地元の商店街さんと自治会さん、地域の企業さんですね、

今だとプロジェクトメンバーを合わせて50団体ぐらい。みんなで「 波に乗っていこう!みんなで鶴見を盛り上げていこう」と団結していますね。

ー「ちむどんどん」横浜鶴見プロジェクトの今後の展望を教えてください。

任期が2023年の3月までで、そこで区切りがつきますが、そこからも活動継続していきたいですね。

ちむどんどんの放送自体は9月までなので、9月以降は沖縄のお店を中心にして、スタンプラリーをやろうという計画もあり、それに付随する冊子を作ったりとか。

その冊子の中でも鶴見ウチナー祭のイベントだったり、地域のイベント情報を載せて、区内はもちろん区外からも来るような、ちむどんどん関連のアフターイベントを企画してますね。

ーちむどんどんが放送される前から、鶴見にも視察に来られていたんですか?

来てましたね。NHKの方たちから、沖縄に関する放送を企画してるので、ヒアリングさせてくださいって結構いろんな人にヒアリングしてました。

僕もそれ受けて「企画が通ると良いな~」くらいの軽い気持ちでした。

そこから21年3月に翌年の朝ドラは鶴見が舞台で『ちむどんどん』ですって発表があった時はちむどんどんしましたね(笑)。

それから地元の人たちも鶴見を盛り上げようという雰囲気になり、 区役所の方からも「ちむどんどんで地域活性をしたい」という話をいただきました。

区役所さんとは鶴見ウチナー祭をやって以前から交流があったので、主要なメンバーの野村さんを筆頭に関係者にも声をかけて集まってもらい、2021年12月に「ちむどんどん」横浜鶴見プロジェクト実行委員会が発足されました。

ちょうどコロナもあり、日本全体がどんより沈んでいる感じだったので、街が活性化して、地域が元気になればいいなっていう思いもありましたね。

沖縄アイデンティティーを引き継ぐ

ー下里さん個人の今後の取り組みについてお聞かせください。

僕は今41歳なんですけど、若手から中堅に移行してきた気がします。青年部を見ると僕より若い子が増えてきて、その子たちと上の世代を繋ぐ役割を担っていこうと思いますね。

先輩の話も受けつつ、下の話も拾いつつ、次の世代のためにアイデンティティーを引き継いでいきたいですね。

幼少期のころの思い出として、夏休みのたびに鶴見に遊びに来ていた際、本土を内地というのに違和感があって。

「じゃあ沖縄は外地か?俺はこっちの人とは違うのか」みたいなこと思った時期があって。

でもいざ鶴見に住んでみると、多様性があって違いは気にならなくなりましたね。

特に鶴見は南米からの移民も多くて、多様性にあふれているので、その魅力を伝えたいですね。

事業面だと、県人会館の1階をすべて当社で借りられるように拡大していきたいです。

奥の方に製麺工場を作って、地元の子たちに工場見学してもらったり、沖縄そばを作ってる工程を見えるようにしたりして、1階からこの県人会を支えていきたいなっていう思いはあります。

大きな夢としては、5年後ぐらいを目安に鶴見で「道の駅」を作れたら面白いなと思っています。

場所的にも東京と横浜の間ですし空港からも近い。今後インバウンドも戻ってくると思うので、多文化共生の街と宣言してるので、沖縄料理があったりとか。

地元の穴子が美味しいお店があったり、地場での野菜も取れますし。他にない道の駅ができるんじゃないかと考えていまいます。

あと現在、横浜・鶴見沖縄県人会の青年部活動も積極的に行っていますが、メンバーの8割が南米出身でうちなんちゅの移民2世・3世だったりします。多様性に富んだ面白い会になってきました。

ただ沖縄のコミュニティを繋ぐだけじゃなくて、地域と沖縄文化をチャンプルーさせていきたいですね。

まくとぅーそーけー、なんくるないさ!

ー沖縄の若者に向けて一言メッセージをお願いします。

「まくとぅーそーけー、なんくるないさ」の一言ですね。

正しいことをやって準備しておくことで、あとはなんとかなる。

もちろん思い通りにいかないことや苦労もあると思います。そんな時のために準備をして自分を信じて行動してみることですね。そうすれば助けてくれる人たちとの出会いや縁も広がると思います。

あと沖縄から出たからこそ沖縄の良さってわかると思うんですね。沖縄を県外から見ることでさらに沖縄の魅力を知ってもらって、それから沖縄に戻るのもありだと思います。

関東在住うちなんちゅのコミュニティも多いですし、困ったらぜひ鶴見に遊びにきてください。

鶴見ももともと地方から移住した人が多くて、新しく来る人を受け入れる懐も深いです。ぜひ飛び込んできてください。


下里優太(しもざと・ゆうた)

1981年那覇市出身、垣花小→沖縄尚学(中高一貫)、文教大学卒業後、スーパー勤務を経て㈱おきなわ物産センターに入社2016年社長就任。2021年に設立したリバーストーン取締役に就任。横浜・鶴見沖縄県人会青年部の事務局長も務める。ちむどんどん放送を機に立ち上がった「ちむどんどん」横浜鶴見プロジェクト実行委員会の委員長も務める。

平良英之

下里さん、お話ありがとうございました!

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この記事を書いた人

東京沖縄県人会広報理事。「東京都沖縄区」代表。AFP、二級ファイナンシャルプランニング技能士、住宅ローンアドバイザー、証券外務員2種。1983年生まれ。宮古島市出身。

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