「大丈夫、沖縄の人間は強い!」池村昌彦さんの仕事論(整体師)

池村昌彦さん仕事論

そう話すのは東京・神田にて整体院を経営する池村昌彦さん。

自らの治療をきっかけに整体の道を志し、あえて厳しい道を選ぶことで心を鍛え、やがて独立するまでのキャリアはどのようなものだったのでしょうか。

東京という街で生きていくコツ、次世代へのメッセージも教えていただきました。

目次

昔から変わった子でした

池村昌彦さん

―現在のお仕事について教えてください。

東京、神田で整体院を経営しています。「30分で効果が出る」をキャッチフレーズにカッピング(吸玉)や三角ブロックを利用したカイロプラクティックや東洋医学・整体と16年の経験で編み出した独自の治療法「COM調整」が特色です。

―沖縄ではどんな日々を送っていましたか?

父親が県庁職員で母は薬剤師という家に生まれました。4人姉弟の末っ子で上の姉3人は皆勉強が出来て優秀でしたね。中学は沖縄尚学に通っていましたが環境が合わずに公立の安岡中に転校、高校は浦添高校に通いました。

部活は野球と剣道をやっていましたがやりたくないことはしたくないという性格で、野球の練習は好きでしたが日曜日の練習試合は行きませんでした。「なぜ日曜日に野球をしないといけないのかわからない」という理由で(笑)。

おかしな話ですよね。今思い返せばかなり変わった子でしたし今でも変わっておりません。

その頃、打撃練習中に腰を痛めて整骨院に通いだし、治療して頂いた先生がすごく良い方でして、愚直に患者と向き合う姿勢に感動して誰かの苦痛を和らげる整体師やトレーナーみたいな仕事もいいなと思うようになりました。

それまで日本史の教員を志望していましたが、そこでの出会いが大きな転機となりました。

整体師への憧れ

池村昌彦さん

―大学生活について教えてください。

野球を続けようと思って沖縄大学にAO入試で入学しました。法経学部でしたが法律や経済にはほとんど興味がなくむしろ歴史に興味があって、「琉球風水と家の関係」というレポートで優を取った記憶があります。

その他はだらだらと単位を取るだけ。野球とアルバイト一色の生活で酒を飲みクラブに通う。そんな生活でしたね。

―その後の進路については

大学2年のときに父親が倒れて入院することになり、もう働けないということが分かって「すぐに働かないといけない!」と、学費のことも考えて深く考えずに大学を辞めてしまいました。

普通にアルバイトだけの生活となったので県内よりもお金が稼げる季節労働に応募し、愛知県で工場作業をしていました。

その後はリーマンショックの影響もあり早期退職制度も使って25歳で沖縄に戻り、柔道整復師の学校に通いました。

将来の開業を目指して本土で経験を積まれた先生の下で学びながら働いていましたが卒業試験に合格できませんでした。

でも整体を学ぶことへの思いは捨てきれずにチャンスが多い東京に出ることにしました。

頻繁にセミナーも開かれていますし、何より沖縄から通う交通費がかからないこと、そして沖縄と情報量が10年分ぐらいの開きがあるように感じました。

技術もなく安い給料でこきつかわれる沖縄よりも勉強になりレベルも高い。さらには待遇面でも10万近く良かった東京を選ばない理由はなかったですね。

東京で働くことは当然、恐怖心もありました。でも県内テレビ局で大道具のアルバイトをしていたときに「世界で活躍するウチナーンチュ」という趣旨の番組制作に携わってとても勉強になりましたし勇気づけられました。東京へ出発する1週間前だったので運が良かったと。

その時に司会をされていたガレッジセールのゴリさんとは5年後の東京で再会することになります。これも不思議なご縁ですし、会いたいと思っていると会えるものですね。

精神修行からのスタート

―東京ではどんな生活を送ってきましたか?

これを話すと大丈夫か?と思われてしまうかもしれませんが、競争の激しい東京で生き抜いていくにはまず精神面での鍛錬が必要だと考えて、業界で一番厳しいと有名なトラック組み立て工場で期間工として3ヶ月間働きました。

真夏でも簡易クーラーのみで恐らく室内の基本は常時45度近くあったと思います。

どんどん人も辞めていく中でなんとか3ヶ月間歯を食いしばって働きましたよ。今思えば無茶していたなと思いますが、この時に培った忍耐力が今にも生きているような気がします。

その後は2980円のマッサージチェーン店で働きました。そこは都内で1番の売り上げを出す繁盛店でとても刺激になりました。8時間ほぼ休憩なしで入っていましたが、ここでかなり経験を積むことができました。

自宅から店舗までの通勤で時間があったので地方では手に入らない医学書や指圧・マッサージの本などを専門店で購入してYouTubeの動画も併用しながら勉強時間に充てていました。

ただ揉むだけではない「意味のある施術」を研究し、お客さんに効果を聞いて改善を繰り返し、どんどん質を上げていきました。

また体力には自信があったので夜から朝までは別のマッサージ店に勤務して、さらに地下鉄の清掃作業など仕事一色の生活でしたが、遊ぶことや人に会うことも忘れずにしていました。

やりたい事、好きな事に全力投球をしているということもあり仕事も苦痛には感じませんでした。なによりも頑張った人は必ず報われるというこの環境にいることが最高なんです。

その後は中野・方南町の整骨院でカイロプラクティック、大久保の整骨院で東洋医学を駆使する技術を習得していきました。

技術を生かすための独立

―そして独立を果たされるわけですね。

店舗勤めしている時から名刺を作って自分の施術を気に入ってくれたお客さんに配るようにしていましたが、いっそのこと自分で培ってきた技術と、こうしたいという思いを形にできる自分の店舗が必要だと感じて、2018年9月に神田に整体院「ラクなーる」を開院しました。

独立のきっかけは行き着けの日本酒バーの店主からの一言でした。「もう店やっちゃいましょう」と言われて「じゃ、やっちゃいますか!?」というノリでした(笑) 。

今まで技術の研究ばかりで経営に関しては全くの素人だったので、開院仕立ての頃は何も分からずに苦労の連続でしたが、周囲の方々に助けてもらいながらようやく1年が経ちました。本当に感謝しています。

その後は色んなご縁を頂いて、小顔矯正の仕事で月に10日ほど中国に行くこともありました。

上海・無錫・余姚・南京・南昌・長沙・北京・桂林・南寧・広州・深圳・杭州・貴陽・長春・太原・武漢・シリンホトなど、香港映画好きな私にとっては色んな場所に行けて楽しかったですし、お金にもなりましたね!本当にどこにチャンスが転がっているかわかりませんね!

東京の整体業界に身を置いて感じたことはテクニックは勿論のこと、志や情熱、そして“人と人のつがなりが大切”だなと思いました。

お客さんも最初は人の紹介からスタートして今ではSNS、口コミでの来院も増えてきています。

さらに同郷の沖縄出身経営者の会合に顔を出すようになってからは「こうやるとお客さんは喜ぶよ!」とか「こういうシステムを入れると集客にいいよ!」「ここはこう改善できるかも!」など先輩経営者目線のアドバイスを頂けるようになりました。

同じウチナーンチュの絆は非常にありがたく、助けられています。

依存せずにコントロールをされないこと

―東京はどんな街ですか?また東京で生きていく上での心構えはありますか?

奥が深くて新陳代謝が早い街ですね。また技術を持ったスペシャリストが集まるところでもあります。

競争が激しいので精神的にも経済的にも自立しているというのが暮らしていく上での前提になっている気がします。

この街で大切なことは互いに依存せずに相手にもコントロールされないこと。いい意味で互いを利用し合うぐらいがいいかもしれません。

自分は沖縄ならではのおおらかさ、人当たりの良さを前面に出しながらも、顧客の期待値以上の高い技術力や、今では希少となっている技術「カッピング(吸い玉)療法」を専門で提供できる整体院という差別化を図ってきました。

また沖縄とは文化も違うので約束やルールの守り方1つとっても違います。また何でも本音で言い合える沖縄と違ってここでは相手の気分を害さないようにオブラートに包んだような言い方をしますね。最初から全てを合せようとすると息切れしてしまうので、僕は自分のペースを守り少しずつ対応していきました。

未だに分からないことだらけですが、例え間違えても「間違っていたら教えてね!」といえば教えてくれますよ!そういう意味では同郷の仲間が集まる県人会のネットワークもどんどん生かしたほうがいいですね。

―最後に沖縄からの旅立ちを志す読者にメッセージをお願いします。

良い意味での「なんくるないさ精神」でいきましょう!「適当にやればいい」という運任せでの意味ではなく「やるべきことを全てやって、あとは結果を待つ」という意味です。

だから目標を持ったら最後まで諦めないこと、自分はどこでも通用するという強い信念を持ってください。

野球の試合で例えるならば9回裏ツーアウトからの逆転もありますからね。生きていくことも同じかと。

自分も専門学校では落ちこぼれのレッテルを貼られました。一度、貼られてしまうとなかなか抜け出せない苦しさも味わいました。

陰口を叩く人も一部にはいますがその人達はきっと暇なのでしょう(笑)。何かの目標に向かって全力を尽くしていれば他人を構っている暇などあるわけないですから。

でもそのレッテルを剥がすのも自分自身です。その為には自己主張をしてください。でも自己主張とわがままは違います。発信をすることができれば東京でも外国でもどこでも生きていけます。

大丈夫。沖縄の人間は強い!沖縄に留まっていては分からない世界があなたの事を待っています。どうか、大切な自分の人生を思う存分生きてください!

池村昌彦さん


池村昌彦(いけむら・まさひこ)

1983年那覇市生まれ 浦添高校卒業後、沖縄大学法経学部を中退。 19歳から整体師の勉強を始め、31歳で上京。マッサージ店などで経験を積み、2018年9月に東京駅の隣、神田に「首肩こり・カッピング専門整体院 ラクなーる神田」を開院。カッピング(吸玉)や三角ブロックを利用したカイロプラクティックや、東洋医学、整体を組み合わせた独自の治療法は評判を呼んでいる。

【TEL】080-7170-4149

平良英之

池村さん、お話ありがとうございました!

池村さんにお仕事のご相談・ご提案がある方は、「しまんちゅの翼」まで気軽にお問い合わせください。

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この記事を書いた人

東京沖縄県人会広報理事。「東京都沖縄区」代表。AFP、二級ファイナンシャルプランニング技能士、住宅ローンアドバイザー、証券外務員2種。1983年生まれ。宮古島市出身。

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