「東京は動く人に優しい街。最後の答えは必ず自分で」ちゅうざんさんの仕事論(俳優)

ちゅうざんさん仕事論

そう語るのは俳優やラジオDJなど芸能の世界で幅広く活動されるちゅうざんさん。

超体育会系のマーチング部で身についた精神力と成功体験、苦労した東京での下積みを経て芸能の世界で活躍するまで、経験して気づいた東京という街で生きていくコツ、次世代へのメッセージを教えていただきました。

目次

引っ込み思案を変えてくれたマーチングバンド

ちゅうざんさん

―現在のお仕事について

映画・ドラマを中心に俳優として活動をする一方で都内のライブハウスを中心に自身で作詞・作曲したJ-POPジャンルのライブ活動をしています。

また沖縄県浦添市のコミュニティFM局「FM21」で映画音楽を中心としたバラエティ番組を持つほか、石垣島の郷土紙、八重山日報沖縄本島版の県外特派員として取材活動をおこなっています。

―沖縄ではどんな日々を送っていましたか?

中学までは引っ込み思案で人前に出ることが苦手でした。不登校の時期もあったりして自分の自信が持てないまま漠然と高校進学をしました。

でも西原高校マーチング部に入部した事で全てが変わりました。たまたま担任が同部の顧問だったことと中学でトランペットを吹いていたこともあり軽い気持ちで入ったのですが、これがもう超がつく体育会系で。

世界大会で優勝するぐらいのレベルなので当たり前といえば当たり前ですが平日は朝練、昼休みも練習、放課後は夜までと、1日15~16時間の練習に加えて休みはお盆と元旦の2日ぐらい。

辞めていく生徒も多い中、「日本一になりたいなら日本一の練習をしろ」というスポ魂を地でいく指導が僕の心に響いて自分の中に負けず嫌いの一面も見出すことができました。

恐らく一人だったら心が折れていたかもしれませんが、同じ目標を持った仲間達と共に切磋琢磨する一体感が大きな支えとなりましたね。

高2、高3と全国大会を連覇して世界大会も一度金賞を受賞することができました。特に日本武道館で満員の観客から浴びた歓声は今でも忘れません。どんなに辛い練習も一瞬で吹き飛ぶような感動でした。

中学まで何かを成し遂げた経験はありませんでしたが、やるべき事をしっかりやれば大抵の事は出来るぞという今につながる成功体験というか、10代で沸点を100℃まで高める経験をできた事は大きかったと思います。

1ヶ月の東京生活が教えてくれたこと

―上京のきっかけを教えてください

高校3年間が部活漬けだったので大学ではやりたい事をやろうと友人やサークルの仲間とバンド活動や映画の自主制作、大学のフリーペーパーの創刊をやりました。

また個人でも学園祭の舞台監督を引き受けて県内外のアーティストを招き、イベント会社や大学職員の皆さんにプレゼンテーションを行ってスポンサーも集めていました。

さらにモデル事務所に入って県内のCMや映画に出演させて頂くこともありました。1日24時間では足りないぐらい全力投球でしたね。

そして大学3年になって進路も考えないといけない時期に当時遠距離恋愛をしていた千葉県に住む彼女から「一度、沖縄を離れてみたら」と言われたんです。

県外はあまり意識していませんでしたがどこか沖縄の閉塞感というか、親しみやすいけどどこかムラ社会的な部分もあるじゃないですか。同調意識が強いというか。

沖縄も含めて地方独特の閉塞感が苦手だったので、ちょうど募集していたNHKのインターンシップに応募して1ヶ月間、お試し的に東京で暮らす事になりました。

東京は家賃も高いし無給のインターンシップだと生活費をどうしようかと心配していたのですが、調べてみたら大学やハローワークの県外就職者向けの助成金とか色々あるんですね。

あまり贅沢はできませんでしたが、助成金を利用したお陰で自分から持ち出す事なくインターンシップに没頭する事ができました。

この時にやりたい事を叶える為にはどうすれば良いか、何が必要かを自分で調べる習慣が付きました。

NHKでの1ヶ月間は裏方として番組制作の過程を間近で見させてもらいました。本当に刺激に溢れた時間でしたね。

また東京では大学3年生で一斉に同年代が就職活動を始める光景を見て驚きました。 今はそれほど違いはないと思いますが、当時沖縄の県内企業を目指す学生は大学4年の秋ぐらいからだったんですね。すごいカルチャーショックというか。

卒業後は東京で芸能の道に進むつもりだったのですが、親からは「4年生大学まで行かせてもらって、実家暮らしでスネかじって、東京で芸能やるなんてバカ言うな。内定の1つでも取ってから言え」と一喝されました。まあ至極当たり前の話ですよね(笑)

だから意地でも内定取ってやると就職本のトップ50の在京企業を業界関係なく全てを受けました。今思うと滅茶苦茶ですよね。

でも面接会場に行くと周りは京大や上智、早稲田といった有名校ばかり。5ヶ国語話せますという帰国子女やモデル並みの容姿を持つ女子学生など、沖縄では絶対に見られないような学生が沢山いて自分もそれなりに大学生活をアクティブに過ごしていた自信はあったのですが、上には上がいるなと痛感しました。

彼らと話しているだけで刺激になりましたし、自分もそういう状況を楽しみながら積極的に動いた結果、4年生を前に有線放送を運営する企業から内定をもらうことができました。

待っていた現実。働くという事は

―上京後の生活はどうでしたか?

内定をもらって会社員として働こうとも思いましたが、やっぱり自分のやりたい芸能の世界で一旗上げてやるんだという気持ちには嘘をつけなくて、絶対に迷惑かけないから挑戦させてくれと両親を説き伏せて内定を辞退させてもらいました。

内定を取るという約束は守ったので「そこまで言うならばあなたの好きにしなさい」と送りだしてくれました。

でも夢だけで暮らせるほど東京は甘くなかったですね。カラオケボックスや運送会社、映像製作会社でのアルバイトを掛け持ちしながら週末にライブハウスで歌うつもりだったのですが、現実は生活するだけで精一杯。ライブ活動どころではなく、飲み代も食費も切り詰めていました。

バイトで腰も痛めて「ああ、俺は何をしているんだ」とダークサイドに陥っていくんですね。でも悔しいから簡単には沖縄に帰りたくない。どうしようもなくなっている時に、運良く知人の紹介で広告会社の社員になる事ができました。

昭和感バリバリの体育会系、仕事は自分で見つけてなんでもやる。現代では珍しい、いわゆる「徒弟制度」の職場でした。かなり厳しい環境でしたが、よく言えばプロとしての愛があるわけです。

仕事のやり方や人へ尽くす事、お金を稼ぐ大変さを学ばせてもらいましたね。自分の甘えやゆるさを叩かれた感じがして、20代半ばにして経験できたことは良かったです。働くことは大変という当たり前を学べました。

それまでは夢を追いかける自分の姿にどこか酔っている部分もあったのですが、いやいやサラリーマンで働くってすごいなと。職業どうこうよりもその人の生き方が大事なんだと。そこから人を肩書だけで判断する事を辞めました。

その後、転職を経て3年半のサラリーマンとして働く時間が働く楽しさと厳しさを教えてくれ、改めて自分のやりたい道で成功したいという思いを強くしました。

死ぬ気で得た大逆転チャンス

―現在のキャリアに至ったわけは?

上京して5年ほどたったのでちゃんと芸能の夢に挑戦しないと消化できないなと思ってフリーの記者をしながら楽曲制作やライブ活動のほか、大好きな映画への憧れもあり何かチャンスになればと撮影現場でエキストラとして参加したりして、これまで中途半端だったことに対して再挑戦しました。

でも28歳ぐらいで行き詰ってしまって家賃も払えないぐらい追い込まれました。

芸能の世界に憧れて上京したのに回り道ばかり。気づけば7年が経とうとしていてこれ以上芽が出なければ向いていないのかなと、30歳までにどんな小さい仕事でもいいから主役がこなければもう辞めようと決めました。

覚悟を決めて動いたら不思議なもので2日後に舞台の主演が決まりました。 でも急遽決まった代役での主役だったので舞台初日まで10日を切っていました。もう、死ぬ気になって2日間で分厚い台本の台詞を完璧に覚えましたね。

稽古でも年下の男の子に罵倒されて影で悔し涙を流しましたが、そこに人生全てを賭けて挑んだことで無事に公演を終えることができました。人間追い込まれたらなんでも出来るなという事を痛感しました。

その舞台を見た関係者を通じて縁が広がり、映画だけでなくドラマやCMのお仕事を頂けるまでになりました。それから3年。まだ余裕はありませんがようやく願い続けた芸の道で身を立てられるようになりつつあります。

会社員時代の広告ライターの経験がフリーランスの記者としてお金を稼ぐ力になったし、フリーの記者をしたことで俳優としてもフリーランスでも仕事を取れる力になっていると思います。そう考えると回り道に思えて無駄なことは一つもなかったなと強く実感していますね。

それも辛い時代を支えてくれた妻や家族の存在があったからこそ。常に夢を後押ししてくれた妻には感謝の念しかありません。

東京は“動く人”に優しい街

―あなたとって東京はどんな街ですか?

東京は自分でアンテナを張って動いた分だけ返ってくる街だなと思います。逆にぼーっとしていたら誰も手を差し伸べてはくれない。

沖縄の価値観だとそれは冷たいと言うけども、自分がこの街でどう生きて何を発信したいかが分かっていれば数字や結果に応じてちゃんと評価してくれるし、動いた人にはちゃんとチャンスは待っている。逆に優しい場所だと思っています。

東京はどんな街というより、あなたはその場所で何をしたいのか?が重要になってくると思います。

そう考えれば東京以外の街であってもいいわけです。大阪でも福岡でもアメリカでも。自分がどうしたいかをその街に当てはめればおのずと生き方は見えてくるんじゃないかと思います。

―今後の目標を教えてください

音楽でも芝居でもその道には必ず“一流”という尊敬できる人達がいます。そういう人達と仕事がしたいですし、見た人に元気や勇気、笑顔を与えられる作品に関わりたいと思っています。

一流の人達と仕事をする為には自分も常にアップデートを続けて必要とされる人間になる必要があります。この道に終りはありません。

最後の答えは自分で導き出して

―最後に沖縄の若者にメッセージをお願いします

僕の話は運や環境に恵まれたある意味サクセスストーリー聞こえるかもしれませんが、それ以上の挫折と苦労がありました。それでもここまで来られたのは退路を断った東京という環境だったからこそ。

沖縄では逃げ場を見つけていたかもしれません。皆さんもきっとこの先それぞれの道で壁にぶつかるはずです。そして恐らく周りの人達からは助言やヒントをもらうことでしょう。

でも最後の答えは必ず自分で導き出してください。

「人の当たり前は恐い」とは高校時代の恩師の言葉です。周りの価値観やスピード感は常に流動的で誰も責任は取ってくれません。自分に対して嘘をつくことのないように、しっかりと決断できる指針を持ってください。

僕が東京で芸能活動しながら沖縄でラジオDJや八重山日報社の県外特派員もやっているのは、夢を追うのと同じくらい自分のスキルを活かして地元への恩返しや貢献をすることが重要だと考えているからです。

夢やビジョンを描くのも大事ですが、目の前の事を疎かにせず自分ができることは何か、やるべきことは何かと真剣に向き合っていくことでしがその先の扉は開かれません。

自分に素直になるという事は同時に一番厳しい道を選ぶことにもなります。でもそれをやるだけの価値は間違いなくあると思います。皆さんの未来が輝く事を祈っています。


ちゅうざん=本名:中山祐貴(なかやま・ゆうき)

1986年8月11日沖縄市生まれ 西原高校マーチング部に所属し、トランペット担当として全国大会連覇、世界大会金賞に貢献。2009年沖縄大学を卒業後に上京。音楽活動と平行しながらコピーライターとして広告制作会社、人材サービス会社に勤務。その後、フリーランスライターとして独立。2014年「GQ JAPAN Most Stylish MENコンテスト」ファイナリストに選出。2016年、初舞台・初主演を機に本格的に芸能活動を開始。 主な出演作に映画「琉球カウボーイ」(2007)、「新宿スワン2」「東京ヴァンパイアホテル」(2017)、「飢えたライオン」(2018)。ドラマ「絶対零度」「グッドドクター」「ドクターY外科医加地秀樹」「スカッとジャパン」(2018) 現在、石垣島の郷土紙「八重山日報」にてコラム「ちゅうざんの車窓から」を連載するほか、浦添市のラジオ局「FM21」にて、自身の冠番組「ちゅうざんのラジオ・サンデー!」(毎週日曜14時~)オンエア中。 中山(ちゅうざん)の芸名は、琉歌(沖縄和歌)の女流歌人として活動していた伊是名島出身の祖母から。

平良英之

ちゅうざんさん、お話ありがとうございました!

ちゅうざんさんにお仕事のご相談・ご提案がある方は、「しまんちゅの翼」まで気軽にお問い合わせください。

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この記事を書いた人

東京沖縄県人会広報理事。「東京都沖縄区」代表。AFP、二級ファイナンシャルプランニング技能士、住宅ローンアドバイザー、証券外務員2種。1983年生まれ。宮古島市出身。

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